本山興正寺

本山興正寺の沿革 当山は親鸞聖人をご開山として、その法脈を相承する真宗興正派の本山であります。
承元元年(1207)の念仏停止により、親鸞聖人は越後に配流されましたが、寺伝によれば、その翌建暦二年(1212)越後から京都に帰られ、山城郡山料の郷に一宇を創建し、興正寺と名づけられました。聖人はこの寺を弟子の真仏上人(第二世)にまかせられ、関東行化の旅に立たせられました。
次いで、順徳天皇より「興隆正法寺」の勅額を賜わり、真宗念仏宣布の根本法城となったのであります。
第七世了瀬上人は、元応二年(1320)、寺基を洛東竹中の庄、汁谷(渋谷)に移され、ご本尊が光明を放った霊顕により、後醍醐天皇より「阿弥陀仏光寺」の勅号を賜わり、以来一山両号を用いたのであります。
その後、故あって、文明十三年(1481)、第十四世蓮教上人(経家)は興正寺を山科西野に再興し、仏光寺はその弟教誉上人が継ぎ両山に分れたのであります。
蓮教上人は本願寺の蓮如上人と力を合わせて念仏弘通に奔走されましたが、天文元年(1532)八月兵火にかかって山科興正寺は焼失し、第十五世蓮秀上人は幸いにつつがなきをえたご真影を供奉して大阪天満に法燈をかかげられました。これが天満本山であります。
天正十九年(1591)第十七世顕尊上人の時に至り、本願寺と共々に寺基を現今の地に移されました。このように蓮教上人以来、興正寺は本願寺と行を共にしていましたが、明治九年、第二十七世本寂上人は興隆正法の実を挙ぐべく、敢然として別派独立されたのであります。
明治三十五年十一月、不慮の火災により、本堂その他はとんど灰炉に帰する不幸が起りました。この本堂は起工より、実に百二十八年の年数をかけ、日光の本廟、知恩院の山門とともに、日本三建築の一つと称せられた壮大華麗な大伽藍でありました。惜しみても余りあることであります。
第二十八世本常上人は直ちに再建の工を起され、明治四十五年、現在の両堂大伽藍が京洛の地にそびえ立つに至ったのであります。実に驚嘆すべき門信徒の信仰と報恩の念力の結晶であります。
山科に興正寺が建立されてより、ここに七百六十有余年、幾多の変遷を経ながら法燈は連綿と輝いて今日に至っているのであります。「参拝のしおり」より

 このページは真宗興正派及び本山興正寺の正式なページではありません。
また写真は本山興正寺紹介の作者 田宮宗専法友がご本山に上山した折々に撮影したものですので現在の姿とは異なるものもあることをご了承下さい。

keiseki11平成10年4月14日.15日.16日と本山興正寺に於いて例年の通りに春の法要が営まれました。本年は14日に興正寺第17世顕尊上人の400回忌の法要が勤まりました。この法要を記念してサヌカイトと声明の合奏奉納がなされました。
サヌカイトの音をお聞き下さい。とても神秘的な音ですよ。
 
 
sanmon京都駅より歩いて10分、七条通りを堀川までまいりますと、西本願寺と隣あわせて巨大な甍を並べる興正寺本山が見えてまいります。土塀を巡らしたその中央に見えるのが御本山の正門で、これを山門と呼んでおります。この門の両わきには、堀川の流れに沿ってつつじの植え込みが有り、春にはきれいな花が咲き乱れ、興正寺のつつじとして有名であります。

goeidou1[1]

山門をくぐりますと、まず、真正面にそびえる大殿堂を見ることができます。これを御影堂、あるいは祖師堂と申します。その昔、大阪にあったお堂を現在の京都堀川のこの地に移転して建てられたのは丁度、豊臣秀吉が全国を統一した翌年のことで、その時のお堂は、興正寺のひとつ御堂といわれ、知恩院の山門、日光東照宮と共に、日本三大建築 の一つと称えられる立派なものでした。しかし、残念なことに明治35年に火災にあい、この本堂はすっかり灰になっ てしまったのであります。やがて門信徒の信仰の厚さと、報恩の念力が凝結されて、10年後の明治45年に建立されたのが現在の御影堂であり、阿弥陀堂でります。

amidado1[1]御影堂の北側にそびえる2重屋根のお堂にご案内しましょう。このお堂は阿弥陀堂と呼ばれ、大阪のご門末の方々が中心となり、明治45年に建立されたものです。

 

 

amida2[1]阿弥陀堂は親鸞聖人がかねて拝まれていた お内佛を大きくしたものとお考え 頂ければよろしいでしょう。ですからここは、ご立像の阿弥陀如来を中心に聖徳 太子を始め、法然上人等、七高僧のご絵像が安置されてあります。

 
 
kyozo[1]境内の北東にあるこの建物は、宝蔵あるいは経蔵と呼ばれ、縦横3間5尺、周囲は厚壁を塗り土台の上には、みかげ石の欄干を巡らせてあります。中には大切な経文等の宝物が保管されてあります。この宝蔵は明治35年の火災を免れた建物の一つで、江戸時代後期の建立となっています。その後、孝明天皇より「法宝蔵」の勅額を賜りましたが、現在は宝蔵の中に大切に保管されています。

shoro[1]宝蔵と正反対の境内の一角に鐘つき堂があります。これは先の法宝蔵より百年ほど古く、江戸時代中期の建立で、桃園天皇の十三回忌をご縁として皇后様の恭礼門院様が、梵鐘と共に御寄進下さったものです。梵鐘の直径は約3尺です。この鐘つき堂は上に階層を設け、当時特に許されて、周囲に高い欄干を巡らす美しく、格調高いもので、これまた、火災を免れたことは大きな喜びであります。

 

 

taimensyo[1]御影堂の西側に静かなたたずまいを見せているこの建物を表対面所と呼んでいます。中はいつもはガランとした人気のない大広間といった感じですが、毎年の報恩講行でわれるお斎には、報恩講に出勤した僧侶や仏教婦人会の面々にご門跡様直々のお言葉があったり、本山御用達の交信社の皆さんの能が舞われたりしてにぎわいます。

kaikanこれら、歴史ある華麗な大伽藍の境内の中に、融合し調和するかのように 白亜の近代建築が建っています。これが興正会館です。興正会館は地上3階地下 1階で門信徒の皆様の宿泊施設、研修室、会議室、喫茶室などがあり、ご本山で の宿泊、研修会、歓談の場として利用されております。この会館は親鸞聖人ご誕生八百年を記念して昭和45年に完成したものです。

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