圓頓山聲明

師匠 唄師・近藤真因の聲明

秀雄の弟子良海の弟子宝泉院瀧本深達(1850-1915)は天台系各宗各派の声明伝承に力を入れ真宗興正派の声明師近藤真因(1895- )に多くの声明曲の伝授を行なった。現在大原魚山声明を使用している他宗各派の中で最も多く魚山声明を伝承しているのが興派であろう。 (天納傳中著 天台声明入門3・天台学講座第4・5合併号 叡山学院)

 

bonbai1深達僧正より拝領の六巻帖と魚山聲明本

 

bonbai4深達僧正より拝領の梵唄本の内容

 

本山興正寺第29世本昭上人は明治37年、得度式を妙法院門跡、大僧正村田寂順を戒師と仰ぎ、唄師を宝泉院深達僧正として受式された。 これを機に魚山大原宝泉院、深達僧正のもとに、長尾 猛、三原憲照 近藤真因の3名を派遣して魚山大原の聲明の奥義を修得させ、本昭上人御自らも大原に通われ聲明の研鑚につとめられ、わが派の聲明の確立をされたのである。

bonbai2 唄師、真因は大原へ派遣される時、同郷で以前より深達僧正と親交の深かった藤井暁念、長尾 猛の両先生から大原の聲明を修練し、若輩ながら、ほとんどの聲明曲を大筋で会得していたという。 大原で深達僧正からの修得は自身の聲明の確立と完成の為のものであったと思われる。 しかし宝泉院での魚山聲明の修練はテ-プレコ-ダ-もMD、CDというようなメディアもなく、その上いくら若年といえど長期間自坊を不在にし膨大な費用と時間を費やした、まさに命をかけたものだったという。 その修練は、石に噛り付いても深達僧正の一言一句を、一節でも聞き漏らさず耳の底に焼きつけておかなければとの、稽古風景であったと聞かされた。 現代における日数をかけ、録音メディアを駆使した稽古とは趣を異にするものであった事が簡単に伺われる。 短時間での修得と奥義の伝授に疑問をもつ声が聞かれるが、前述の通りの稽古風景と深達僧正から魚山聲明の奥義を書き表した魚山聲明集と六巻帖を拝領したと言う事がその声を否定する証である。

 

bonbai3 真因が大原宝泉院を後にする時、深達僧正は『聲明の極意は心である。いかに声もよく節回しが良くとも、大衆の心に感動をあたえるものではない。つつしみ深く、たかぶらず、内に秘める信仰心から迸る聲明であってこそ、僧俗ともに心深いお念佛の声が、おのずから漲る事であり、争いは唄師の最も嫌う所なり』と真因に面授口決され、深達僧正所有の六巻帖と魚山聲明集を下付されたと聞く。 その六巻帖と魚山聲明集を開くと当時の鍛錬の様子がつぶさに思い浮かぶ。 興正寺霊山別院(本廟)退職後も、魚山大原宝泉院深達僧正の面授口決の生存する弟子として、魚山流古典聲明の研究のため各方面から自坊の養福寺へ大勢の先生方や学生が来院していた。 そして平成2年2月95歳で還浄した。その後を順良が継いでいたが、同じく平成5年2月お浄土に帰った。 深達僧正拝領の六巻帖と聲明本他は現在養専寺にて大切に保管している。

 

huein真因愛用の調子笛と末弟証の朱印

 

keiseki自坊の裏山から切りだし、
真因自ら旋盤とベビ‐サンダ‐で作りあげた12律の磬石(サヌカイト)

 

wagesa興正寺前門主本昭上人から齢82を祝われご下賜の御同朋袈裟